徳永製茶の歩み
創業
設立
うれしの茶
お茶まつり
三代目
これから

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創業創業

昭和天皇行幸での茶摘み風景(嬉野町・昭和24年)

1947年(昭和22年)戦後の混乱期の中で徳永製茶は生まれました。
創業者、徳永正郎34歳、元軍人だったために公職追放の身となった正郎は茶業を志します。翌年芳子と結婚、ふたりでまごころ込めて夜遅くまでかかって仕上げたうれしの茶と妻の作った二食分の弁当を携え、佐賀方面や長崎方面へと自転車で行商に出掛ける生活が始まりました。勿論ハイテク製茶機械など何も無く、五感を頼りにお茶の判定をしながらより多くの人に好まれるお茶の探求に努め、やがて坂本(50年間勤続後退職、今でも繁忙期には活躍中です。)が加わり製茶問屋徳永製茶の基盤が作られました。 より良い明日の社会を作るために日本人が皆必死で頑張っていた時代、このころが一番張り切って充実していたと芳子は振り返ります。
正郎は近代における嬉野茶の流通業界組織の確立にも足跡を残しました。 1973年(昭和48年)西九州茶商協会創設時には初代会長としてその重責を全うし嬉野茶業の振興に力を尽くしました。 自らを「野武士」と称した正郎は、人情溢れる感情豊かな「もののふ」でした。


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設立会社設立

1975年(昭和50年)長男壯太郎が家業を継承し2年後に佳代子と結婚、若いスタッフも次々に加わり、1991年(平成3年)株式会社徳永製茶設立、工場直売店も新たに〈茶荘徳永〉 と名付けられました。このとき既に橋口、大島、山口は若いながらもそれぞれの分野でエキスパートとして活躍しており、41歳の壯太郎を中心に「お客様のニーズに合った高品質のおいしい嬉野茶をできるだけお安い価格でお届けすること」即ち従来のコンセプトである「安心安全でおいしい嬉野茶の供給」を原点に新しい体制がつくられました。


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うれしの茶茶荘徳永のうれしの茶

徳永の大福茶

1996年(平成8年)翌年は創業五十周年ということで記念企画を考案、その頃既にご好評を頂いていた「大福茶」の割引セ-ルを催しました。「出来るだけお安く」との価格設定のもと、徳永のお茶はまとめてお買い上げ頂いてもお値引きは一切致しておりません(出来ません)。しかし記念に思い切った企画をと「大福茶」に限って割引価格で 販売致しましたところ大変大きな反響を頂きました。
1997年(平成9年)創業五十周年の新茶時期にも同様に「大福茶」程度の初摘み茶に限って特別価格で販売、次の年にもまたというお声をたくさん頂戴し、それ以来≪期間限定≫恒例企画として現在まで続けております。(ただ通常のご贈答にはお手頃価格のお茶を多数取り揃え皆様のご用命を頂いております。)


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お茶まつり第53回全国お茶まつり

農林水産大臣賞受賞茶並びに入賞茶 第53回全国お茶まつり
1999年(平成11年)「 第53回全国お茶まつり」が嬉野町で開催されました。
佐賀県茶商工業組合理事長として壯太郎も参画、このときの全国茶品評会釜炒り製玉緑茶の部に於ける農林水産大臣賞受賞茶並びに入賞茶、蒸し製玉緑茶の部で農林水産省園芸局長賞受賞茶を販売、恒例の大福茶と共にお客様におたのしみ頂きました。また、このときの大会宣言に、日本茶インストラクタ-制度の確立が盛り込まれ、翌2000年(平成12年)4月第一期生が誕生、佳代子もそのひとりとなりました。


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三代目三代目

2014年 (平成26年)壯太郎の次男・和久が社長に就任、徳永製茶は過渡期を経て新しい時代を迎えました。佳代子は日本茶インストラクタ-リ-ダ-、新社長も既に日本茶インストラクタ-として活動しており、6年前に結婚した妻・ヴェラはスロヴェニア人ながら日本茶アドバイザ-と茶育指導士の有資格者。祖国の大学で日本語や日本文学を学び、大阪外語大に留学、今では顔の見えない電話注文も(外国人だとは気付かれずに)こなしています。が、難しい会話で苦労することもしばしば、何卒温かく見守って頂きますよう宜しくお願い申し上げます。


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これからこれから

いまや情報手段・流通機関の拡充、多様化により世界はすっかり狭くなりました。
安い労働力と温暖な気候により量産された外国産緑茶の輸入量も年々増加する一方で、茶葉の国内消費量の減少には歯止めがきかず、嬉野においても茶産地としての真価を問われる時代となってきました。手探りのなかで私達に出来ることはとにかく「高品質でおいしいうれしの茶をよりお安く」、このほかにありません。日本茶、特にうれしの茶の魅力を発信し、ひとりでも多くの消費者の皆様にご満足頂けるうれしの茶を作り、お届け出来るようスタッフ一同頑張ってまいります。
お引き立てを賜りますようどうぞ宜しくお願い致します。

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