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佐賀のお茶話

日本茶栽培のはじまり--【栄西禅師と脊振山】

建久2年(1191臨済宗の開祖・栄西禅師が宋より帰朝の際持ち帰った茶種を播種した背振山麓・霊仙寺石上坊前園が「日本最初之茶樹栽培地」として知られています。また、栄西禅師は日本最古の茶書「喫茶養生記」を著し建保2年(1214)三代将軍源実朝に茶と共に献上、茶の効能を説き喫茶を推奨した師の功績は計り知れません。

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うれしの茶のはじまり--【焼物文化と釜炒り茶】

15世紀半ば(1440頃)の室町時代、嬉野郷皿屋谷には中国から移住した陶工達により陶器製造が行われており、彼等が中国より携えてきた茶種を自家用として播き栽培していたのが嬉野茶の始まりと言われています。永正元年(1504)、明の陶工・紅令民が南京釜を持参し、当時中国に於ける最新の製茶法である釜炒り茶の製茶技術を伝えたことにより今日の嬉野釜炒り茶の製法が確立されました。

【さが名産物語】佐賀新聞_H.15.5.12付

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うれしの茶の発展--【吉村新兵衛と大茶樹】

吉村新兵衛と大茶樹

江戸時代初め,鍋島藩士吉村新兵衛は西口の警備を命ぜられ嬉野郷不動山皿屋谷に移住、森林警備の一方で茶樹栽培・製茶に力を尽くし地場産業としての基礎を築きました。

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新兵衛は慶長8年(1603)天下分け目の関ヶ原の戦いの直後、佐賀・妙安寺小路に誕生、龍造寺隆信に仕えた父・大串太郎右衛門(後に吉村と改姓)を25歳で失い、後年白石の大庄屋を務めた後、皿屋谷に移住、俵坂番所に伴う西口の警備と山林取締りにあたりました。

その職務上「往来札に関し越度があり御法度にふれ、慶安3年(1650)切腹と決まったが父太郎右衛門、祖父三郎右衛門の武功により一命を助けられた。その後新兵衛は君恩に感じ、後世に貢献しようと決心し、茶樹を栽培して製茶に全力をつくし、これを皿屋谷一円に奨励し嬉野茶を創始した。」嬉野町史) 

このころ新兵衛が植えた茶樹の一本と言われる不動山の大茶樹(左上画像・傍の人物と大きさを比較してください。) は大正15年(1926)国の天然記念物に指定され、また昭和9年(1934)には皿屋谷天神山に不動自彊青年団員、地元茶業関係者、町内外の有志により吉村新兵衛翁頌徳碑が建立され「嬉野茶の茶祖」として遺徳を讃えられています。

明暦3年(1657)藩主鍋島勝茂公逝去を知るや殉死追腹、享年55。葉隠れ武士の魁ともいえる新兵衛の死は、二代藩主光茂が幕府に先んじ追腹禁止令を発布する5年前のことでした。

明治18年(1885)時の農商務郷・西郷従道より新兵衛は追賞証を授与されています。

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吉村新兵衛翁頌徳碑 碑文

「吉村新兵衛翁ハ嬉野茶創業ノ祖先白石南郷ノ大庄屋トシテ杵島郡白石郷辺田村ニ居住慶安年間故アリテ当皿屋谷ニ隠遁シ農ヲ業トス此地山間ノ僻邑ニシテ耕地ニ乏シク農家経営ノ困難ナルヲ憂ウ偶々父老ノ口碑ニテ茶業栽植ニ適スルヲ信シ夙ニ茶業ノ興産ニ奮起ス拮据勉自ラ労働ニ従ジ或ハ野ヲ拓キ或ハ荒撫ヲ起シ以テ茶園数百畝ヲ設ケ又一面苦心惨憺釜熬製茶法ヲ按出シテ拡充ノ道ヲ策ス爾来幾百星霜傳聞ヤハ隣保郷挙ツヲ茶業ニ精進シ遂ニ今日ノ盛況ヲ見ルニ至ル今ヤ嬉野茶ノ声価内外ニ喧々タル蓋シ翁ノ賜トヤ謂フベキ慈ニ同志相図リテ碑ヲ建テ其ノ徳沢ヲ萬古ニ頌フム矢」

 

 追  賞  証

佐賀県肥前国藤津郡不動山村 

    吉村鶴五郎 祖先

  故 吉村新兵衛


  一金 拾五円

 慶長中志ヲ茶業ニ起シ地ヲ耕シテ山間ニ移住シ種ヲ播シ苗ヲ植ユ製法ヲ講究シ隣保ニ奨メ澵ク一村ヨリ一郷ニ及ビ販路ヲ拡張シ拮据四十年遂ニ地方特産ヲ興シ今日嬉野茶ノ聲價ヲ内外ニ博スルニ至ラシム其功顕著ニ因テ追賞ス 右佐賀ニ於テ之ヲ振興ス 

明治十八年十一月四日

          農商務郷従三位勲一等伯爵  西 郷 従 道   印


 ------二百五十年忌 にあたる1906年、11代目の子孫 吉村均に送られた鍋島館印の書付------

吉村新兵衛と大茶樹 吉村新兵衛と大茶樹



-------------〈嬉野茶業中興の祖・吉村森右衛門〉---------------

新兵衛の死後、子孫ら吉村一族を中心に栄えた茶業も、やがて衰退の陰りをみせかけた頃、新兵衛の曾孫にあたる森右衛門は「よいお茶をつくるには、よい茶園を作ることが肝要」と茶園管理の工夫研究に務め、実践し、皿屋谷の茶園を甦らせました。昔、陶工の住む焼き物の谷・皿屋谷と名付けられた不動山の谷間は森右衛門の努力により一新され、以後、新屋谷(さらやだに)とも称されるようになり(「不動郷土誌」より)、寛政5年(179379歳で死去した森右衛門は「茶業中興の祖」として敬われました。

------------〈嬉野茶の販路拡大に努めた茶商・吉村藤十郎〉---------------

森右衛門の弟の孫・藤十郎は天保年間(1830~1843)各地で宮相撲の行司をつとめながら相撲見物の人々に嬉野茶を宣伝販売しました。「松寿軒」と屋号を称し、茶の規格を整え銘柄をつけ商品価値を高め、宣伝文の版木をつくり印刷して各地で配布、佐賀・長崎を中心に嬉野茶の販路拡大に努めました。

*藤十郎が定めた茶の規格

「浅緑」「今出川」「鷹爪」「紅梅」「春雨」「飛鳥」「春花」「東霞」「初霞」「紅梅山」「翠嵐」「青葉」

*宣伝文

「松寿軒ノ団扇ノオカシキ印ヲ覚エ給ヒテ多少ニ限ラズオ求メニ預ラン事ヲ仰ギテ希ヒ奉ルナリ  皿屋谷  木村藤十郎製」


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煎茶の広まり--【煎茶道の祖・売茶翁】

煎茶の始祖・売茶翁

江戸中期、「茶銭は黄金百鎰(ひゃくいつ)より半文銭までくれ次第只呑みも勝手、只よりはまけ不申候」と店先に掲げ、京を行き交う人々に煎茶をすすめた「売茶翁」の愛称で知られる仏教僧・高遊外は佐賀・蓮池の生まれです。

真摯な禅僧として生きてきたそれまでの人生を投げ捨て、京に上ったのは1731年(享保16年)彼が57歳のときでした。 やがて売茶生活を始め、東山に「通仙亭」という日本初の喫茶店を構えます。嗜好は人それぞれに異なるもので他人に押しつけるべきものではないとしながら、権力・財力で流される世を憂い、人々の心の目を覚まさせたいとの思いで「一服のうまいお茶」を煎じてすすめた売茶翁、悠々自適、清貧に甘んじ、茶禅一味を貫き通した彼の人となりは多くの文人達の共感を呼ぶと共に煎茶は広く一般庶民に親しまれていきました。宝暦13年(176388歳で没。

煎茶を風流な趣味芸道にまで高め、また、煎茶を通し人の生きるべき道を説いた高遊外売茶翁は、「煎茶道の祖」と讃えられており、彼の父・柴山杢之進、並びに師と仰いだ肥前龍津寺の化霖禅師の墓が嬉野市内の民家の一角に遺されています。

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うれしの茶・海外へ--【茶商・大浦 慶】

大浦慶

幕末期、日本茶を初めて本格的に輸出した大浦慶(182884)は長崎油屋町の生まれ。嘉永6年(1853)慶はオランダ人テキストルと提携し嬉野茶の見本をイギリス・アメリカ・アラビアに送付、3年後イギリス人オ-ルドより、大量(72トン)の注文を受けるも嬉野だけでは応じられず、九州全土よりやっと6トンを輸出、以後茶貿易で財をなした慶は明治維新に活躍した志士達(大隈重信、坂本竜馬率いる亀山社中ら)に援助を惜しまなかったと謂われています。 

明治17年(18844月、明治政府は慶に対し、茶輸出を率先して行った功績を認め、功労賞と金二十円を贈っていますが、しかしそのとき慶は既に危篤状態にあり、46日慶のもとに県の使者が出向いた日から一週間後の13日、大浦慶は57歳の生涯を閉じました。

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江戸時代の記録に残る嬉野茶--【ケンプェル・司馬江漢・吉田重房・シ-ボルト・吉田松陰・ゴッホ・松尾儀助・野中元右衛門との関わり】

   ケンプェルが記した嬉野茶

元禄3年(1690)ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンプェルは、オランダ東インド会社より年に一度派遣される使節の一員として来日。2年間の滞在期間中見聞した日本の風俗や、将軍謁見のための江戸参府などをまとめた「江戸参府紀行」に嬉野茶に関する記述を遺しており、長崎街道沿いに茶園が広がっていたと述べています。

司馬江漢が記した嬉野茶

天明8年、(1788)江戸の絵師・司馬江漢は長崎へ下る途中、嬉野茶を飲み、「嬉野と云処、茶を出だす所なり。茶釜なし、一度一度に土瓶にて煮花なり。之のみ甚だよし。」と述べています。

吉田重房

文化3年(1806)吉田重房「筑紫紀行」には、「是より不動山を、四、五丁 登れば、唐茶を売る家多くたちならべり、この里の名物というなり。」と記されています。

シ-ボルトも絶賛した嬉野茶

ドイツ人医師で博物学者のシ-ボルトは、文政6年(1823)オランダ商館付医師として長崎に着任、三年後にまとめた「江戸参府紀行」に、「嬉野の茶栽培は日本国に名高くして優れたる緑茶を産出す。」と記しています。

吉田松陰が見た嬉野茶

嘉永3年(1850)、吉田松陰が著した「西遊日記」によると、「この所茶に名あり、往還筋より二里ばかり在へ掛けて、家々茶を生産す。四月採茶のとき、好機会は十日に過ぎず故にその時は家々は多くの人を雇う。五、六十人に至る者ありという。」と人力に頼る茶摘みが述べられています。(「人づくり風土記・佐賀」(社)農山漁村文化協会出版)

ゴッホが作品を遺した嬉野茶の茶箱の蓋

明治20年(1887)「起立工商会社」パリ支店に出入りしていた無名のゴッホは、墨で書かれた社名入りの茶箱の蓋を入手、それをキャンパスとして一枚の作品を描いています。(アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館蔵)

「起立工商会社」とは日本の美術工芸品や物産を海外に輸出し販売していた会社。創業者の松尾儀助は佐賀出身で、親戚である和漢生薬・藩製烏犀園本舗の野中元右衛門に鞠育せられ、商いに於いて元右衛門の右腕にまでなった人物。明治6年(1873)ウィ-ン万国博覧会に茶商として参加、後に政商として活躍しました。儀助の曾孫にあたる田川永吉氏の著書「松尾儀助伝」には、野中元右衛門について大浦慶との結びつきも深く、慶がオランダ人テキストルやイギリス人オ-ルドとの交渉成立の陰には彼の存在が大であったと記されています。

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