〜(13)嬉野茶〜 釜炒りに伝承の香味
五百度に熱した釜底に生茶葉を投げ込む。バリバリと激しい音をたて、芳しい茶の香りが辺りに広がる。嬉野町役場の敷地内に復元された唐釜。ここで八十八夜の献茶祭に奉納する茶が、年に一度、昔ながらの釜炒(い)り手もみの製法で作られる。 室町時代に始まった嬉野茶。一四四〇(永享十二)年、中国の陶工が嬉野の皿屋谷に移住して製陶しながら茶を栽培したという。さらに一五〇四(永正元)年ごろ、中国の紅令民なる人物が唐釜を持参し、釜炒りの製茶法を伝えたとされている。 緑茶は摘み取った直後、加熱処理し茶葉中に含まれる酸化酸素を不活性化する。この加熱処理で「釜炒り茶」と、煎茶(せんちゃ)などの一般的な「蒸し茶」に分かれる。釜炒り茶は水色が赤みを帯びた黄色で、香ばしく、のど越しがすっきり。何杯でも飲め、脂分の多い食事の後に最適とされる。 嬉野町の茶農家で嬉野釜炒茶協議会会長の山口勇次郎さん(66)は幼いころを振り返る。「昔はどこの家にも唐釜があった。八十八夜のころには、長崎の漁村や白石町から若い娘さん五、六人が住み込みで手伝いに来ていた」。釜炒り手もみの技術を見ながら育ったが、中学卒業のころには機械が導入されたという。
■蒸し茶に転向 県茶業試験場の前身・県茶業研究所が一九三四(昭和九)年に佐研式炒葉機を実用化。五九年には当時の県農業試験場茶場分場と地元の森鉄工が森式連続炒葉機を共同開発し、農家に普及した。嬉野町史によると、五八年当時の製茶工場設備は九割が炒葉機で、「蒸し茶」を作る蒸し機は一割にすぎなかったとある。 だが、炒葉機は手炒りよりも能率が向上したものの、蒸し機の処理能力には及ばなかった。森式連続炒葉機以降は大きな進歩がなく、生葉投入量を増やすと茶葉から出る蒸気で蒸し茶の香味に近づいた。釜炒り茶は量産化が難しく、蒸し茶に転向する農家が続いた。 蒸し茶が普及する前は、広い地域で釜炒り茶が生産されたが、現在は九州の山間地に限られてきている。七三年に設立した佐賀、長崎両県の茶流通センター「西九州茶農業協同組合連合会」(嬉野町)の統計では、総数量に占める釜炒り茶の割合が、七四年度で既に13%と低く、昨年度は総数量が増えているにもかかわらず、わずか1%で十七トンにまで減少している。
■復活への動きも
現在、嬉野町では十戸ほどの農家が釜炒り茶を続けている。「自分が飲み慣れていたからね」と語る山口さんは生産の傍ら、釜炒り手もみの技術を保存する活動にも仲間と取り組む。 日本茶インストラクターの嬉野町の徳永佳代子さん(51)は「健康志向で、お茶のいろんな効能が注目される中、普段と違うお茶を求める声が高まっている」という。 ルーツ釜炒り茶の復活には、技術開発とともに蒸し茶を飲み慣れた消費者のし好を乗り越えなくてはならない。県茶業試験場は好まれる釜炒り茶の開発を目指し、全国の消費者に試飲してもらう市場調査を昨年から三カ年計画で進めている。
=メモ= 〈傾斜釜〉 釜炒り茶の手炒り製法は、佐賀・長崎県で伝わる傾斜釜の「嬉野製」と熊本・宮崎県に残る水平釜の「青柳製」の二種類がある。 嬉野製は釜の傾斜を利用し、生葉を手や叉木(またぎ)で上に押し上げ、転げ落ちる際に入れ交じり、均一的に炒る。昔、中国が大量に茶を輸出するため、能率を上げようと水平釜を改良して傾斜釜ができたという。
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